きれい、そして少し考えられる

例えば、身ぎれいにもしない女性がおしゃれにするとか、ないですよね。

ゴミ屋敷の住人がインテリアデザイナーとかもないし。

 

つまり、段階というものがあるのかな、と考えたのです。

 

 

壊れかけのおトイレを直し、それを機におトイレを全体にきれいにしました。

変な鏡を取り去り、換気扇のホコリをとりました。床に置いていた要らないものを捨て、トイレットペーパーを上の方に置けるように工夫。床がスッキリ。手垢のついたペーパーホルダーカバーを捨てました。

新しいのを買って、タオルと色を揃えて。

 

やっと、気持ちが落ち着いたのです。

 

そしてあらためて、カフェカーテンをかけたらどうかな、とか、小さい絵を飾ったらとか、アロマとか、グリーンを置くとか、もう少しきれいにできないかな?と思えたのです。

つまり、汚いからと、もう思考停止になっていたのだなと。

汚い→何をしても無駄→何もしない→見ないようにする→どんどん汚くなる→さらに何もしたくない→無限ループ

 

これって身なりを構わない人も同じだと思うんです。

清潔にしない→小汚い→どうせ私は→何もしない→人からも見られない→ますます何もしない→やっても無駄という発想→老け込む、みたいな。

 

これが、逆になると

清潔→サッパリする→気持ちが明るく→何かしてみよう→あら、何か素敵→私って悪くない→自信がつく→人から褒められる→嬉しい→もっと工夫しよう→いつもキレイに

 

好循環ですよね。多分家も暮らしも同じなんだと。汚いという環境や現実が、人のエネルギーを削ぐのかも知れない。キレイにして損はないと思いました。たかがおトイレであっても。

今まで、言ってみれば無視していたんです。汚いし、キレイにする気持ちにもならない。みたくもない。また汚くされるだけだし、何で私がっていうような。

 

でも一気に変えてみて、今度はきれいに保とうと思いました。やっぱりきれいな方が気持ちいい。当たり前ですけど。色だって統一感あった方が落ち着くし。清潔は何よりのベースなんだと思いました。清潔、統一感、それから工夫したり飾ったりして、より心地よく。

汚いところでは寛げないし、安心できない。

でも、暮らしに興味ない私の家族みたいなひとには、きっと下らないと思われるんでしょう。

 

私は敏感過ぎるのだろうか、と思ったこともしばしばあります。でも、環境が気持ちに与える影響は少なからずあります。だったら、よりキレイで使いやすい(ここが問題?)場所にいたい。汚いと、汚い空間に気を取られて自分が疎かになるのかも。じっくり落ち着いて気持ちを感じられなくなるのかも知れない。そう思います。例えば騒がしくてうるさい場所、片付かなくてモノか探しづらい家。汚くてゆっくり休めないところ。

不潔や危険なところにいたら、怪我も病気もある意味当然ですよね。そんな場所で「安心して」過ごせもしない。

ましてや、自分自身を見つめたり、こうしたいと希望を持ったりもしづらい。環境と気持ちはリンクすると思います。

 

親と暮らすのをやめれば、ストレスは減ると思いますが。。

暮らすほど汚くなっていく、つまりキレイにしようとはしないのかだら、当然ですが。

やっぱり、手と目の行き届かない場所って嫌かも。広くても狭くても。