片付け方に不満あり。

まだまだ片付けは続いています。

いくらでもある紙ゴミ、なんなんでしょう。

また城が出来そうな勢いです。

そしてゴミ袋の山。

それにしても、何でこういう片付け方なの??

何というか、いつも騒々しくて汚い。

片付けていても、掃除はしないので片付いた感もしないのと、片付け方が下手なのかも。

掃除をしながら片付けないので、汚らしい。

大きいものを先に運び出せば、スペースも空くし作業もしやすいはずなのに、なんかぐちゃぐちゃ。かえって危ない気がするんだけど?!

 

私が気にしすぎるんでしょうか。

 

もしかしたら、そうなのかも知れませんけど。

片付け方もイラつくので、親と一緒にやりたくないんです。わざとなのか何なのか、投げたりするし。ガタガタがさつだし。

普段もドアをバタン!とかして平気です。

私は大きらい。

 

 

でも世の中にはいますよね、何するにしてもガサガサして、何かと音を立てる人。私はあれがダメなんです。食べ方がクチャクチャとか、いちいち音を立てて暮らす人ってダメ。

子供の時、親が不機嫌だとものすごいガチャガチャ家事をしたり、掃除をしたりしていました。怒ってるアピールのうざいやつ。

 

子供の時は怖かった。でも、なんと、、、、

70過ぎてからもやったことがあるんで、、、、

 

若かったからではないことがわかりました

(呆

 

昔バイト先にもいましたが、ただのめんどくさい人です。友達にはいません。本当に嫌いなタイプ。

 

それでも、ゴミ捨てするだけマシなんでしょうか。いや。

そもそも私が溜めたゴミではない。なのに何でこんなに頑張って片付けているんだろう。片付けても、誰も褒めてはくれません。ただの重労働。だんだん、怒りが湧いてきます。

 

でもこの際汚いものはどんどん捨て、見るのも嫌なものを捨て、勝手に新しくしてはいます。

信じられないですが、本当に整理整頓をしないし掃除をしません。

調理器具とかも家電も全てそうで、汚いことこの上なく、あらためて気持ちが悪くなる。

思えば昔からそうなのです。若かった時と何ら変わらないです。だから小学生の頃も、私がたまりかねてきれいにしていました。

汚すぎでイヤだから。

 

 

炊飯器も汚い。

レンジも汚い。

調味料入れも真っ黒。

煮しめたような色のプラスチック容器。

汚くて元が分からないゴミ箱の缶。

掃除してイヤになります。よくこれでご飯作るなと。

 

で。これだけだらしがないのに、何で専業主婦とかで暮らせてきたのかと思います。

掃除も片付けも出来ない、ガサツな感じ。ヒステリックな人。なんで結婚して離婚もされず、

暮らしてこれたの?

でも案外世の中そんなものだったりして、理不尽だなーと思ったりします。ワガママで勝手でだらしないのに、結婚していて守られてて、嫌われてもいない。一方で、日々細々と気を遣って、身綺麗にして、家事もこまめにちゃんとして、なんてやっていても、なぜか文句ばかり言われて、

しまいには無視される。

 

まぁ。

合ってない人ばかり周りにいただけなのかな。

いろいろな家を見てきましたが、どこももっとずっと普通な感じですからね。異様な汚さとかは、あまりありません。大抵のお宅は。

私が潔癖でもないと思います。

親がおかしい。整理能力がないし、判断力がないんだなと。

 

 

セルフネグレクト?

汚い場所にいると、気分がおちつきません。

気が付いたのですが、汚いと自分よりも周りに気を取られます。

なんか安心出来ない、嫌な気分になる。

前向きに考えられなくなる。

もちろん、感情が先の場合もあるでしょうから、影響し合っているんでしょうけれど。

 

忙しいから片付かない、気力もないからキレイに出来ない、と。ましてやインテリアなんて、と。

 

でも、だからこそ普段をデフォルトで使いやすくキレイにしておくことが、自分を助けてくれるのでは?と思います。ぐちゃぐちゃした中では、少なくとも私はホッとできない。

でもこれ、お店などを考えればある程度誰にでも当てはまると思うのです。

くつろぐ、癒し、を謳うお店が汚くてごちゃごちゃってあります?それで流行るとは思えない気が。

やはり、インテリアも音楽も、温度も香りも、色調や手触りなども考えられていると思います。もちろん家とお店は違いますが、人間の感覚的なものは変わらないでしょう。

となれば、家も身の回りも汚くて良いことは一つもないのでは?

 

もしかしたら、親はセルフネグレクトに近いのかなと思ったことがあります。自分の身なりは最低限はしますが、それ以上にはしない。まあ、充分じゃないかという考え方もあるでしょうが、私は実はメイクしたりおしゃれしたり

外見にこだわること、磨くことに罪悪感みたいなものを長らく持っていました。

なんだか、非難されるような気がしていました。

 

ただ、ファッションやメイクは「自分に合う合わない」があるし、似合わないとか、肌に合わないとか言えるものなので、割と干渉の余地があまり無い。それは幸いでした。

でも何かと、近くにいたら干渉されたかも。

サイズもあるし、自分のこだわりを大事にすることが出来ました。

 

メイクもファッションも、自分を大事にはあまりしないような生き方、考え方が家族にはあるように思います。そんなことにこだわるなんでて、みたいな。

少なくとも、素敵ねとか、キレイねとか言うようなことは絶対にありません。 

住まいや環境もしかりです。

そういうことに、一切興味もない。

感覚が欠けているし、こうしたい、も無いのだろうと思います。

 

私は嫌でたまらないけど。

 

 

 

 

きれい、そして少し考えられる

例えば、身ぎれいにもしない女性がおしゃれにするとか、ないですよね。

ゴミ屋敷の住人がインテリアデザイナーとかもないし。

 

つまり、段階というものがあるのかな、と考えたのです。

 

 

壊れかけのおトイレを直し、それを機におトイレを全体にきれいにしました。

変な鏡を取り去り、換気扇のホコリをとりました。床に置いていた要らないものを捨て、トイレットペーパーを上の方に置けるように工夫。床がスッキリ。手垢のついたペーパーホルダーカバーを捨てました。

新しいのを買って、タオルと色を揃えて。

 

やっと、気持ちが落ち着いたのです。

 

そしてあらためて、カフェカーテンをかけたらどうかな、とか、小さい絵を飾ったらとか、アロマとか、グリーンを置くとか、もう少しきれいにできないかな?と思えたのです。

つまり、汚いからと、もう思考停止になっていたのだなと。

汚い→何をしても無駄→何もしない→見ないようにする→どんどん汚くなる→さらに何もしたくない→無限ループ

 

これって身なりを構わない人も同じだと思うんです。

清潔にしない→小汚い→どうせ私は→何もしない→人からも見られない→ますます何もしない→やっても無駄という発想→老け込む、みたいな。

 

これが、逆になると

清潔→サッパリする→気持ちが明るく→何かしてみよう→あら、何か素敵→私って悪くない→自信がつく→人から褒められる→嬉しい→もっと工夫しよう→いつもキレイに

 

好循環ですよね。多分家も暮らしも同じなんだと。汚いという環境や現実が、人のエネルギーを削ぐのかも知れない。キレイにして損はないと思いました。たかがおトイレであっても。

今まで、言ってみれば無視していたんです。汚いし、キレイにする気持ちにもならない。みたくもない。また汚くされるだけだし、何で私がっていうような。

 

でも一気に変えてみて、今度はきれいに保とうと思いました。やっぱりきれいな方が気持ちいい。当たり前ですけど。色だって統一感あった方が落ち着くし。清潔は何よりのベースなんだと思いました。清潔、統一感、それから工夫したり飾ったりして、より心地よく。

汚いところでは寛げないし、安心できない。

でも、暮らしに興味ない私の家族みたいなひとには、きっと下らないと思われるんでしょう。

 

私は敏感過ぎるのだろうか、と思ったこともしばしばあります。でも、環境が気持ちに与える影響は少なからずあります。だったら、よりキレイで使いやすい(ここが問題?)場所にいたい。汚いと、汚い空間に気を取られて自分が疎かになるのかも。じっくり落ち着いて気持ちを感じられなくなるのかも知れない。そう思います。例えば騒がしくてうるさい場所、片付かなくてモノか探しづらい家。汚くてゆっくり休めないところ。

不潔や危険なところにいたら、怪我も病気もある意味当然ですよね。そんな場所で「安心して」過ごせもしない。

ましてや、自分自身を見つめたり、こうしたいと希望を持ったりもしづらい。環境と気持ちはリンクすると思います。

 

親と暮らすのをやめれば、ストレスは減ると思いますが。。

暮らすほど汚くなっていく、つまりキレイにしようとはしないのかだら、当然ですが。

やっぱり、手と目の行き届かない場所って嫌かも。広くても狭くても。

 

 

 

 

壊れたのに放置する神経

壊れたままのトイレが直り、きれいになりました。

危ないから、とか言ってやっと放置したままの便座を取り替え。一応使えるからとか言って、ひび割れているのにずっと使っていたんです。

私はこういうのが本当に嫌い。

お金が全く無い訳じゃないのに、使いたがらない。でもつまんないことにお金かけたり、騙されたり、結局そんな感じ。

生活の快適さに全く興味ないんです。でも、そうやってケチケチしたあげくに怪我したりしたら無意味ですよね。1番バカらしい。

 

今って、いろいろ調べればお金かけなくても便利なものや、使いやすいもの、暮らしやすくなるものはたくさんあります。

いや、そのために皆戦後一生懸命に働いてきたわけじゃないですか。便利で快適な生活を求めて。

なのに、なぜ?

 

家をよく見ると、掃除用のモノとかクリーナーとかあるんです。でも!!!

使っていない。ホコリまみれ。

使わないならなぜ買う?

柔軟剤とか、洗濯ノリとかもそう。

明らかに使っていません。

何で買う??

そしてホウキ。使いすぎで形がほとんどありません。

何で買わない??

でですね。ホウキ使うんだと思われたかもですが、ホウキを使ってゴミをどうするかと言うと、玄関とかにパッてするんです。

集めない、または集めてそのまんまとか。

汚いのが移動しただけです。

掃除になってないんです。

 

でも散々掃除しないとか、言われたんですよね、、、子供の時。掃除機だってあるのにほとんど使いません。でも、親の掃除機を使ってみたら吸引しませんでした(呆

掃除機自体がゴミか。。。

安くて良くないのを買って使えない感満載です。

 

いっときはゴミを玄関前に散らかしてあって、腹が立ちました。多分庭の肥料的な発想なんでしょうけど、見るからに汚らしくて。

 

こう書いてくると、やっぱりなんかちょっと頭がおかしい感じかするかな。

変わった人って言えばまだましですが、

なんか感覚が変。

私はムリ。でも両親どっちもこんな感じなんです。両親共だから暮らせてるのか。そうじゃなかったら離婚してますね、きっと。

子供は親を選んで生まれた説、ありますよね。

大嫌いです。

選べないから。

 

私だけじゃないのかも知れないけれど。

親だからって、合うわけじゃないですよね。

私は、家族の中で多分感覚が全然違う人間なんだと思います。

うちの親はおかしい。

この間やっと友達にも分かってもらえました。

 

 

 

微妙なゴミ処理ぐあい。そして認識の違い?

こないだは金属ゴミを処分してもらいました。

普通の家には無いだろう金属系のゴミ。銅線とかスチール本棚とか物置、機械、引き出し、椅子、アンテナ!

つまり、ちょっと処分に困るようなものです。

そのついでに大量の木材(棚板)も持って行ってもらいました。

 

そもそもなんでこんなモノが、っていうものばかりではあります。使ってもいなかったのだとは思いますが、運んできたのはいったい??

本当に訳が分かりませんが、とりあえずまとめて処分してもらいました。7万ほど。

バカらしいけど、自分で処分はできませんし、運べないし、粗大ゴミに出すには面倒すぎて。

 

しかし。

 

片付いたようで、そうでもない気が。

 

中途半端にまだいろいろ残ってます。

あちらも、使えないものだったのかもしれませんが。結局、まだまだ大きなゴミは出そうです。要らない本棚もまだまだあるし、書類の入ったスチールの引き出しやら、木の板もまだある。これどうするんだろう?

 

紙ゴミも、一度あれだけ持って行って貰ったのにまだまだまだまだある。

どうなっているんだろうか。

しかも、私は密かにすこーしずつ、すこーしずつこれでも捨てていたのに。

いったい、ゴミが何トン詰まっているんだろう。

見るたびにうんざりしてきます。

 

片付けるときは、ビニール手袋は必須です。

あと、好きなお菓子とお茶。

先にポットにお茶を沸かして詰めておきます。

ひとしきり片付けにあたったら、一休み。

うんざりしてため息ばかり出るので、せめてお茶とお菓子は好きなものを。

ゴミ袋、ハサミ、カッター、手袋など何かと使うものはひとまとめにして常備。

マスクもした方が良いかも。

ホコリとか、Gの死骸とか、ネズミの糞とか、もうホントに怒りさえ湧いてきます。

 

おまけに、なんだか首とか腕が痒い。

ダニに刺されたっぽいです。

多分、高いところにあるモノを下ろした時に、ものすごいホコリを浴びてしまったからかも。

いろいろ凹みます。。。

 

片付けの玄関先に近所の方が。

大変ですねとかお話していましたが、古い家の方が丈夫とか使いやすいと仰ったからビックリ。

古い家は丈夫??

ん?

もしやそれは、法隆寺とかっていうイメージでしょうか?(笑

例えば地方の大きな古民家的な建物ならわかりますが、「ただの古い」家ですよ。建築基準法以前のやつです。

丈夫とか言わないで欲しい。

しかも家が仮に丈夫でも、このゴミの重さに長年耐えてきたわけですよ。大して手入れせずひたすら年月経ってきて、どう見てもボロボロになってるんですけど、、、

 

 

認識が違いすぎる。

古い家は暮らしやすいですと。

 

もうそもそも、そこが全く違うのかと愕然としました。変える必然性を感じないってことですよね。年配の感覚とはこういうものか。

古いものに価値を見出してる?

古ければ何でも価値があるわけじゃないですよね??でももしかしたらそうなのか、まさか?

 

そう考えていたら、確かに捨てないはずです。

価値があるから。

だから20年前の新聞とか、あったのかしら。

っていうか、それってなんか後ろ向きなかんじ。過去を抱えて現在を狭く住む意味がわからない。なんのために?

でも、つまりはそういう生き方や考え方が全く違うからゴミと暮らしてる認識が無いんだなと思いました。。。

ゴミ屋敷の住人がよく言う「これはゴミじゃない!」って言うアレ。ゴミじゃないんでしょう、本人には。いやゴミでしょと思うけど。

生活に必要なものは確かに、捨てたら不便です。でも、生活で使うだろうと思うようなものは使わず、使って壊れたものは直さず、使わなくても困らないものは捨てず。

生活空間は狭くして汚いまま。

意味がわかりません。

 

 

やっぱり、暮らし方とメンタルはものすごく関係あるんだなと思います。自分の部屋も乱れ気味なのが悲しい。

 

 

 

 

ゴミ屋敷の他のブログを見て感じたことは

ゴミ屋敷を片付けるプロの方々のブログをのぞいてみました。

大変そう。

うちよりも酷い家はあるんだなぁと思います。

でも、多分ですが、そのようなプロからみたらうちもほとんど同じようなものだと思います。

私が見慣れてしまっていて、うちはまだマシ的に捉えているだけで。

 

で。

 

気付いたのですが。

プロの方が分類して袋に分けていくプロセス。

これってモノ的には、部屋の中にある状態としては散らかっているのと同じですよね。

ただ、分類され袋に分けられているだけ。

モノの総量は変わりません。

ということは、ゴミ屋敷の住人が、部屋に大きなビニール袋をいくつか用意し、毎日ゴミを分類して袋に詰める生活さえしていれば、

ゴミ屋敷といえどゴミは分類され、ゴミ出ししやすいはず。

ゴミ出し出来なかったとしても、分類さえしてあればゴミ袋が積み上がる。

分けてあれば、外に出すだけで片付きますよね。

 

つまり、差は

ゴミ袋にゴミを分類して入れるか、入れないかだけ。

モノ的には、ゴミ袋があるかないか。

これだけですよ。

 

 

例えば、本当に忙し過ぎて家でコンビニ弁当とペットボトルだけとか、洗濯できずシャツを買ってきてるとか、だとしても、ゴミ袋にゴミを分類するだけで一応は散らかりは防げるはずです。

それをしないから、長年のゴミが散らかり積み重なり、どうしようもなくなる訳ですよね。

モノを分類しまとめる。同じものはまとめて。

それが出来るか出来ないか?なのかなぁ。

捨てられないにしても、例えばモノがジャンル別に並べられて固まっていて、でも積み上がってゴミ屋敷っていうのを見ませんよね。

例えばペットボトルだけがたくさん固まって天井までとか。カップ麺のたべかすがズラリとかも見かけない。

なぜか、どのゴミ屋敷もジャンルがぐっちゃぐちゃです。

ある意味似ている。つまり発想とか行動がどこか共通しているのでは?

 

そういう意味では多分うちの両親も多分同じ傾向だろうと思います。

食卓に食事時使わないものとか。

あと壁にペタペタ何か貼るのも。やたらに貼り付けて、しかも多分見てません。汚くなるだけ。

はっきり言って、同じ家で暮らしたくない。

本当は、子供の時からそういう思いを抱えていたのかなと思います。自分の家が恥ずかしかったし、友達の家の方が快適で落ち着けました。

用意されるお茶やお菓子。食器にしても

お盆にしてもきちんときれい。

なんでうちは全部が汚いんだろうと。

 

 

でも、親の片付け方を見ているとやはり

なんで?っていうことは多いです。

使うところと関係ないところにしまうとか。

私からすれば、不便でしょうがない、または探しても見つからないんだけど!というしまいかた。なんかいちいち不便なんです。

ジャンルの違うものをいっしょくたにするとか。

今でももちろん、なんでこれがここに?っていうことはしょっちゅうです。だから多分、片付けが出来ない人は

「モノの分類」が出来ないのかな。

そんなことを考えました。

 

家はまだまだ片付きません。

汚いのは嫌い。汚い暮らし、それは自分を粗末にすること。

私は潔癖症でもないと思います。

電車やバスのつり革はつかまるし、

図書館の本をなんとも思わず読みますし

中古品とか使ってます。

 

でも、汚いのは嫌い。

落書きや、壊れたモノとかも放置するのは

不快です。

枯れたままの植木鉢とか。

ゴミが散らかった道路やマンションとかも。

汚いのが好きな人っているのかな?

います?

 

私は汚くして暮らしてます、とか

楽しい汚部屋ライフとか、

あえての、汚さを味わう暮らしとか?

ないですよね。

意識的に汚くして暮らそうとして暮らす、とかってあるのかな?

なんか、汚くて平気って、無意識だろうし病的なものを感じるんですよね。

 

例えば公共のおトイレとかが汚れてたら、そこ使います?ギョッとして違うところに行きませんか?最近では自動で流れるおトイレも増えましたし、昔みたいな酷い落書きは見なくなりました。壁に穴があいてるとかも、滅多に見ないかな。おトイレって意識レベルがわかりますよね。

 

私、汚いとなんだか気持ちがギュって萎縮する感じがするんです。気持ち悪いしそこに居たくないし、見るのもイヤ。でも現実は、汚くて片付かない家で育ってしまいました。だから、平気なつもりでした。小汚い店や場所も平気な振る舞いをしてきました。だけど本当は大嫌いです。

 

不潔とか、不衛生とか、不便な暮らしとか

生きていく上では自分を何らかの危険に晒す行為だと思うんです。それに気付かないとか、もしも「あえて」するとしたら、それは生物として問題なのでは??

いや。単に私がそういうのが嫌いなだけですが。少なくとも、汚いのが好きな人とは友達にならないし、付き合えません。身の周りの整理も出来ないような人とは、友達にはなりませんしなっていません。身の周りが汚いだけで無理。

 

 

今気付きました。

 

私やっぱり親が嫌いです。

元夫も義両親も無理。

なんで汚いところで暮らし続けられるのか意味が分かりません。

 

今思うと、私は何かを麻痺させて暮らしてきたのかも知れません。元夫と別居後、コッソリ何度か元夫の居ない間に(その時はまだ婚姻中でした)家に入ったことがありました。

ホコリだらけで台所は汚く、歩いた跡が床に残りそうでビビりました。そしてその、全く掃除すらしない空間にぞっとしました。

こういう生活をしていて平気って、私は無理です。外でどんな顔をしていようが、一見ちゃんとした職業だろうが、これがこの人なのかと思うと気持ち悪くて。

もちろん、これが例えば若くて可愛い女性だとしても同じように気持ち悪いです。感覚的に私とは全く相容れない何かを感じます。

 

つまり、1人ならとことん汚い暮らしをしていて平気。なのに、私には細かいことで文句を言うとか、あり得ない。自分がこれだけだらしないのに、人には要求ばかり。でもこれは後から気付きましたが母と全く一緒だったのです。

文句を言っていいのは私なはず。

なのに、尽くしたり迎合していたのは私だった。

いわゆる共依存ですね。

 

 

私は何もしなくて良かったし、尽くされることはあっても尽くす必要は無かったし、親の言うことを聞く必要もなく、いい子でいい妻である必要もなかった。自分で全てを選んで良かったし、好きなことをし、好きな場所で生きて好きなことをして良かった。でも長い間気付けませんでした。

 

汚いところにいると、多分自分の気持ちに目を向け、自分の本当の願いすら大切にできなくなるのかも知れない。こんなふうにしたい、これが欲しい、これが素敵、こうやって生きていきたい。感覚というものが知らずに麻痺して閉じられてしまうのかも。

じっくり考えるとか、思いを巡らすとか、ましてや人のことを大事にするとか、無理なのでは??現に犯罪が多い都市は街が荒れており、きれいにすることで治安の悪さが改善したりしていますよね。

 

私はきれいなところに住みたいです。